段々おりてゆくよりほかないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。メフィストにとってさえそれは「異端の民」だ。そこは「別の地獄」だ。一気にはゆけぬ。 ー谷川雁ー
(2006<天然之美>,陳又維攝)
台湾人の中で、太平洋戦争末期の沖縄戦での戦没者慰霊碑を訪れた方がいらっしゃるだろうか。二十万人もの戦没者の名前の中に、十数名の台湾人の名前が刻まれている。あいうえお順に並んだ一番目に刻まれた名前は、実に『阿乞食』である。その人物の「生業」からそう呼ばれていたのか、或は、その人物の死を記憶した人が後から名付けたのかはわからない。名前の上に「阿」をつける呼び方は日本の習慣には無いから、おそらく台湾人の間で呼ばれた名前だろう。その名前は沖縄人の戦死者とともに、沖縄の海を見渡す高台の、幾重にも並ぶ長い御影石の上に刻まれている。
その手前には、強制連行され沖縄で亡くなった三万人にのぼる朝鮮人の慰霊碑が、朝鮮の墳墓をかたどって建てられている。戦没者のなかには朝鮮人従軍慰安婦も多く含まれる。
二十万人近い沖縄戦戦没者の中から、たった一人の人物の名前にこだわり、その人物を取り上げることにどれほどの意味があるのか、私自身わからない。そして、その事を知らされる台湾人の方々は、およそ良い感情を抱かないだろう。その感情を逆撫でしてまで『阿乞食』の死を掘り起こすことは間違いかもしれない。しかも、掘り起こすと言っても具体的にその人物を知ろうということでもない。しかしながら『阿乞食』に取り憑いた私は、取り憑かれたも同然で、その名前に導かれ歩き出してしまったようだ。
沖縄は中国と日本の両方と朝貢関係を結ぶ琉球王朝であった。1871年に沖縄の宮古島の住民が台湾南部に漂着し、先住民と衝突する「牡丹社事件」が起こった。明治政府はこの事件を利用して清政府と交渉し、琉球の日本領有を認めさせた。まず、琉球国を廃して琉球藩とし、ついで1879年に兵を琉球に侵入させ沖縄県を設置した。琉球はこのときより日本の本土の一部分となってしまった。日本がヨーロッパ帝国主義の行列に身を置こうと躍起になっていた時代である。
『阿乞食』が台湾海峡を渡ったのは台湾の日本統治時代だと思うが、『阿乞食』はどのような経緯で沖縄にたどり着いたのだろうか。また沖縄の人々とどのような関わりをもったのか。更に乞食という身分で戦時下をどう生き、そして亡くなったのか。
沖縄は太平洋戦争で唯一地上戦の戦場となった。「鉄の暴風」と称される米軍の砲爆撃で二十万人近い死者をだした。島民の三分の一が亡くなったことになる。敗戦から1974年の返還まで、沖縄はアメリカの占領下に置かれる。本土復帰後も米軍の駐留により沖縄の全面積の10.7パーセントがが米軍基地になり、「基地のなかに島がある」状況である。しかも、日本の米軍基地の75パーセントが沖縄に集中している。
沖縄は近代日本の国民国家の枠に組み込まれて以来、いまも国家の暴力に晒され続けている。
近代以前、乞食は「生業」として成立し、それを支える『悪所』が存在していた。
古代から芸能の主たる担い手は、土地を持たぬ下層の民だった。吉事の到来を祈る「祝言人」と呼ばれそれにはまた“乞児”の字があてられた。「祝言人」には、神に代わって祝いの言葉を述べる人、門口に立って食を乞う人の二つの意味が同時に含まれる。
中世になると、芸能は寺社と深い関わりを持つ。寺社の境内は芸能興行の場所となり、有名な寺社は傘下に芸能集団を抱えていた。仏や神の功徳を称え、信仰の道を説くという宗教的な名目を表看板に、社寺や仏像の建立・修繕のために金品を募る「勧進」興行として行なわれた。町域では、素性の分からぬ漂泊の「よそ者」と排除されることは目に見えていたので、しだいに「河原」が常設の興行地になっていった。「河原」はまた、古い時代から死者の埋葬地であり、葬送が行なわれるので俗世と冥界をつなぐ境界とされた土地だった。芸能者が「河原乞食」と呼ばれる由縁である。
近世に入り『悪所』が形成されていった。江戸時代では、遊女や芸能者を、社会秩序から外れていることを意味する「制外者」と呼んだ。「制外者」が活躍する遊里・芝居町・非差別の集落を『悪所』と呼んだ。『悪所』は近世の身分制度で区分けされた居住区とは違った、一種特異な都市空間として発展する。身分の上下を越えて、アウト・ローを含めて誰でも出入りできる特異な場であり、地縁的な共同体関係とは無縁な、非日常的な空間であった。そして、境界性・周辺制を帯びた地域で「混沌」が増殖し、遊女があこがれの的になる人倫秩序が転倒した場である。『悪所』には、制度化された「秩序」を破壊し、内側から既存の体制を突き崩していくさまざまな要素が集積される、反権力・反体制の砦となる可能性があった。
明治政府は、全国的な戸籍制度をつくるにあたって、非差別民を平民籍に入れた。1871年公布の賤民解放令である。しかしその際、芸能者や漂泊民などの、戸籍制度の埒外にいる「流民」を徹底的に取り締まった。その時から一番厳しい排除と差別の歴史が始まる。
私たちが3年前に引き続き公演を行なう楽生院療養所は、近代に入ってから国家が進める近代化ゆえ、ハンセン病に対する誤った政府の対策で、半世紀以上に渡ってハンセン病患者の排斥・隔離が行なわれて来た場所である。院民にとっては過酷な排除と差別の歴史であるが、その場は『悪所』的性格を合わせもっていたのではないか。地下鉄路線の拡張に伴い、院民の居住区の大半が取り壊された。自救会が身体を張って守ってきた抵抗の象徴であった納骨堂も、山ごと削り取られ平地にならされてしまった。数年に及ぶ抵抗運動は多くの学生、労働者、子どもと母親たち、知識層や表現者を動員して行なわれた。この多様性・混沌が許されることこそが現代の奇跡である。それゆえ、反権力・反体制の砦としての楽生院の『悪所』性を物語る。楽生院の居住区の保持を目的に行なってきた私たちの表現行動は、砦の大樹を失い一つの抵抗の形を終えた。最後の砦は崩されたように思われるが、わたしたちは自らを制度や体制の中に切り縮め、飼いならされる必要は無い。今や最後の砦は自らの身体にある。この貧しい身体を〈悪〉の住処とし、その野辺に〈悪の華〉を開かせよう。踊り手の身体が、あの世とこの世をつなぐ河原場となる。
公演会場は、真下にざっくりと削り取られた楽生院の旧居住区跡を見下ろす、山の上に新しく建てられた納骨堂の横である。この八年間で150名もの院民の方々が亡くなった。亡くなってからも新納骨堂への移住を余儀なくされた方々の魂へ捧げるべく、台湾の奉納芸能の形式に近づきたいと考えている。死者の参列は必然である。心してお集り頂きたい。とは言え生者にとっては祝祭の空間である。にぎやかに執り行いたいものである。
今年の台湾の中元節に、友人の導きで初めて“放水燈”の行事に参加することができた。突然の大雨にかかわらず、海に放たれる燈籠と、海岸に打ち寄せられた白じろとした流木が対照的であった。燈籠は死者の魂に捧げられたが、流木は死者の白骨そのもののようであった。沖縄・台湾が結ぶその弧の内海に沈むおびただしい数の死者を想った。ここからつらなる島で眠る『阿乞食』を想った。
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